【今日の一曲】今日の日はさようなら/special favorite music

過去作の「magic hour」、「royal blue」の、ポップながらしっとりした雰囲気から比べると、気が狂ったみたいに賑やかなサウンド。

(曲のリンクが上手く貼れないので、アルバムのリンクを貼ってます)


https://itunes.apple.com/jp/album/nowadays-ep/1401059707

 

「royal mamories」が、朝日を歌っていながら(夜明け前 撒かれる光)黄昏の雰囲気を醸していたのと対照的に、「今日の日はさようなら」は、日没を歌いながら(空が夜に変わり ここでお別れ 今日はお別れ)朝焼けのようにキラキラしたサウンドになっている。何気ないけど、実はとてつもない二面性。


https://itunes.apple.com/jp/album/royal-memories/1255057643?i=1255057644

 

それでも、このバンドの全体性が維持されているように聴こえるのは、女性ボーカルの声のしっとりした艶感が、ポップになり過ぎるのをうまく抑制しているからかもしれない。

危うさを感じるほど繊細に思える美しい歌詞と、振れ幅の大きいサウンド、強いけど抑制の効いたボーカルが、バランスを取ったところにこのバンドの楽曲が成り立っている。

 

うーん。面白いバンドだなあ。

昨年の10月にライブに行ったけど、めっちゃ楽しかったなあ。また大阪でライブやってくれないかなあ。

 

【今日の一曲】Ceremony / special favorite music

明るい曲を歌っても、どこか黄昏感のある歌になる。朝一番よりも、真昼よりも、夕暮れに近くなったときの雰囲気を歌う。そんなバンド。


https://itunes.apple.com/jp/album/secret-keys/1255057643?i=1255057647

この曲聴いてたら、2ヶ月くらい不調だったメンタルも復調してきた。もうちょい頑張れそうだなって感じ。

B級漫画を愛する

中島らもが「自分は徹底してB級であることを目指している」と言っていた。「読んでいるときはとにかく面白くその世界に没頭できるが、読み終わったあとには教訓もメッセージ性も何も残さない。徹底した娯楽であること」を目指す、という趣旨だった。

 

世の中にはB級漫画と呼ぶべき作品が沢山ある。

1巻、続いてもせいぜい10巻ほどで完結する漫画。映画化やドラマ化など望むべくものない漫画。会社の飲み会や合コンで「趣味は漫画です。最近読んだ漫画は…」とタイトルを挙げても、一ミリも話題は発展しないであろう漫画。書店の新刊の棚の隅にに1週間置かれた後は、誰の目にもつかない棚へ移動される漫画。数年後には確実に絶版になっているであろう漫画。誰の記憶にも残らない漫画。読むその瞬間の快楽だけを提供して、その読後には何の感慨も残さない漫画。

 

僕はそんな漫画たちが大好きだ。

仕事で疲れ果てた頭では、小説や人文書なんて読めやしない。

読めるのは、エンタメ度100%の漫画だけだ。

kindleを導入してから、狂ったように漫画を読みまくっている。僕の心を、ほんの一瞬だけ癒してくれる漫画たち。

 

そんな漫画を供養する記事、いずれ書こうかな。

 

【今日の一曲】RUN and RUN/lylical school

リリスクを続けて聞いている。これくらいしか聞く気が起きないというのもある。

この曲がリリースされた当時、メンバーの離散はまだ決まってなかったはずだろうけど、でも、明るい曲調に反した黄昏感がある。リリスクらしい「影」の趣がある。まあ、メンバーがごっそり入れ替わってしまった今、この曲を聞く僕のバイアスなのだろうけど。

 

https://itunes.apple.com/jp/album/run-and-run/1169375395?i=1169375432

 

僕にとって音楽というのは、喫煙者にとってのタバコみたいなものだろうと思う。常に軽度の依存症で、音楽の聞けない環境は不安になる。通勤・帰宅途中に、家や会社にイヤホンを忘れると落ち込む。

 

道のりの中では必ず、なにかの曲でグッとくる瞬間がある。「このために感動のために生きてるんだな」という実感を持てる瞬間。

 

この二、三ヶ月は、メンタルもフィジカルもボロボロで、音楽で感動するほんの僅かな瞬間すらなくなっている。

 

ひとは精神的に追い詰められると、感動する感性が失われる。911を眼前で体験してしまった坂本龍一は、しばらく音楽を聴かなくなってしまったという。

 

それでも僕は、とりあえず音楽を聴き続けることにしている。感動とは言わないまでも、ほんの一瞬だけ、心に清涼な風が吹いたような気持ちになる瞬間がある。

 

その僅かな瞬間が、今日訪れるかもしれない。だから今日も、イヤホンは忘れずに持ち歩こう。

【今日の一曲】つれてってよ/lylical school

リリスクの最新?曲。

黄昏感のあるメロディーの一方で、気合の入った歌詞、それでも脱力感のあるラップ。いいバランスになってる。(歌うまくなってるよね?メンバーが変わったのもあるのかな)


リリスクの初期の曲「おいでよ」と対になってるのかな。人を誘う立場(おいで)から、出発を待ち望む(つれてって)立場への変化。掘り下げると面白い対比かも。

カップリングもいい。


https://itunes.apple.com/jp/album/%E3%81%A4%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%82%88-call-me-tight-single/1326222514

【本】静かに座っていること/宇野維正『小沢健二の帰還』

タイトル:小沢健二の帰還
著者:宇野維正
出版社:岩波書店
読書した日:20171230ー20180102
 
 
この本は、小沢健二が日本での音楽活動を突然やめてしまった1998年から、19年ぶりにシングルを発売する2017年までの「空白の時期」について書かれた本である。記述は、マスメディア、ホームページなど、オフィシャルに公開された小沢健二の活動・本人の言葉がベースになっており、著者はあくまで客観的な事実から分かることだけを記述している。僕は同じオザケンファンとして、著者自身の思い入れを排除するために払われたであろう、著者の苦心に思いを馳せながら読んだ。
オザケンの熱心なファンにはよくわかることだろうが、オザケンに関して、思い入れを排して語ることはとても難しい。
小沢健二は誰にとっても『特別』なのだ」

london-calling.hatenadiary.jp

 
僕は、ファンとして、オザケンのキャリアについて当然わかっていたつもりだった。けれどこの本を読んで初めて、オザケンという人がどのように考え、どのようなみちのりを辿ってきたのか、客観的に知ることができたと感じた。誰にとっても「特別」であり続けてきたオザケンについて、客観的な事実だけをベースに書かれたこの本は、ほんとうに貴重な一冊だ。
 
さて、本書を読めば当然分かる(著者も述べる通り)ことなのだが、本書の帯にも書かれている「空白の時期」という言葉には語弊がある。実際には19年の間にも、数枚のアルバムを出したり、2010年にはライブをやったり、映画の上映会をやってみたり、オザケンは本当にいろいろな活動をしていた。ただその活動の仕方が、他の有名ミュージシャンがやるような仕方とあまりに違ったので、周りから見れば、オザケンが表舞台からフェードアウトしたように見えたのだった。
 
マイペース、と言ってしまうとあまりにもチープなのだけど、この本で詳述されているオザケンの19年間は徹底して、驚異的なほどマイペースだ。オザケンは、自身の文章・自身が配信したUstreamの番組内で、次のように語っている。
 
 (P125、126)
  • 人それぞれ、生きるペースってあるじゃないですか…みんな生きる上で問題に直面した時に、それを解こうとするのだけど、人によって問題を解くのにかかる時間は違うし、問題そのものも違う、というか
  • 学校じゃなくて日常生活では、みんなそれぞれ違う問題にぶち当たって、それぞれのやり方でその問題を解いていく、と
  • 誰かが十年くらいかけて何か問題を解いたとして、その問題は、他の誰かは一ヶ月とか一年で解く問題なのかもしれない。あるいは、他の誰かは一生解かない問題なのかもしれない。そういう風に、本当はみんなに、いろんな生き方とか、生きる速度があるわけで。

 

(P.152)
クラシック音楽の曲で、ピアニストがピアノの前に座って、ピアノを空けて、でもピアノを弾かないで四分三三秒のあいだ、静かに座っているという曲があります。僕の場合も、そんな感じがあります。四分三三秒ではなくて十数年になるのですが、僕と音楽の関係は、ピアノを開けて弾かないで座っているピアニストとちょっと似ているのかもしれません。

 

僕らの目には、何もしていないように映った期間でも、オザケンは、他人には見えない/聞こえない仕方で、彼なりのやり方で、音楽を奏でていた。他人には止まっているように見えるけれど、本人はずっと何かをし続けている。それは、誰の目から見てもわかるように行動し続けるよりも遥かに難しいことなんじゃないだろうか。
(P.152)
一九九七年頃の僕にとって、一番簡単なことはCDを出し続けることでした…そのまま一〇枚ぐらいまぁまぁのアルバムを出したり、他の人のプロデュースをすることは一番楽にできることでした
 
二〇一二年、突然再開したライブを行うモチベーションについては、こう語っている。
(P.150)
それで今は、そのよく知っている場所で、よく知っている歌を、一語一語歌って、一つ一つ確かめたいとというか。
 
誰かに勧められたからとか、強制されたとか、他の人もやっているからとか、お金のためとか、名声のためとか、ファンのためとか、社会のためとか、そんな「分かりやすい」動機ではない。オザケンは、自分自身で「確かめたい」がために、再びステージに上がったのだった。拍子抜けするほど正直で素朴で、だからこそ、他人からは理解できない動機。自分の外にある価値を信じる奴隷道徳ではなく、自分の内にある価値だけを信じて行動する貴族道徳(ニーチェ)。
 
きっと誰しもが「ピアノを開けて弾かないで座っている」時間を持っている。その時間は、僕にとっては一分かもしれないし、別の誰かにとっては一〇年かもしれない。それは他人からは見えないし、分からない。だからその時間は、誰にも邪魔することはできない。邪魔をさせるべきではない。
 
追い立てられ急かされ、常に成果を要求され続ける日々にあっても、「静かに座っている」時間を、大切にしていきたい。
 
 
僕自身もこんな風に、小沢健二のキャリアと自分の人生とオーバーラップさせてしまう。
小沢健二は、僕にとってもまた「特別」だということなのだけれども。

(diary)をはじめます/はじめました

2018年になったのを機に、ブログをはじめてみます。

継続できるかは甚だ疑問ですが、、、

 

ブログ開始を思い立ったのは、同世代の友人たちの活動に感化されたからです。

彼らは、自身の主たる仕事(多くは、建築設計者や研究者たちです)とは別のテリトリーで、雑誌・SNS・ブログをはじめとする様々な媒体に書評や批評文を書き続けています。

彼らの仕事が暇なわけはないので、日々の多忙な時間の合間を縫って、地道にインプットとアウトプットを積み重ねているに違いありません。。

そういう作業の蓄積は、巡り巡って彼ら自身の主たる仕事にもフィードバックされていくだろうし、彼らのキャリアの可能性を拡げ、人生を豊かにしていくことでしょう。

 

一方の僕はと言えば、仕事(僕もまた、建築設計者なのです)を言い訳にして、執筆はおろか、かつてはあれだけ熱心に続けていた読書すら怠る日々。そんな自分に喝をいれ、友人たちの研鑽に少しでもキャッチアップすべく、ブログを開設することにしました。突発的な思いつきですが、思い立ったが吉日という言葉もあるので。

 

ブログのタイトルはどんなのにすれば良いのか、思いつき故にとくにカッコいいアイデアもないので、とりあえず(diary)としておきました。

主として、読んだ本の感想を軸とした批評文のようなものを書ければ良いと思っています。

 

自分なりに、マイペースにやります。皆様におかれましても、気長にお付き合いいただけましたら幸甚に存じます。